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2016年7月1日 星期五

 九谷燒 暁舟銘 七寶透菓子鉢 附箱 明治時期










九谷燒 暁舟銘  七寶透菓子鉢   附箱

 ≪ サイズ≫
直径 21.5センチ
高さ 7センチ


明治九谷の盛衰

金沢九谷

 明治維新の打撃を受けて、多くの士族を抱えた旧加賀藩の城下町 金沢では士族救済が急務となっていました。このため、明治政府の殖産興業政策に乗じて、金沢区方によって士族の失業救済授産事業として製陶部は置かれました。この製陶部には京都から砂子吉平、尾形周平らが招かれ、地元からは小寺藤兵衛、初代 諏訪蘇山らが参加して、白磁に洋彩した磁器を生産し、さらに、勧業試験場が各種工芸品を生産奨励したことから、陶業も大いに盛んとなりました。
 そして、明治2年(1869)、加賀藩士であった阿部碧海は、同様に、士族授産のため、金沢古寺町に5基の窯を築き、80余名の工人を雇用して陶業を興しました。職長(画工)に元藩士で、色絵を得意とした内海吉造(民山窯で活躍した鍋屋吉兵衛の子)を迎えました。この事業が金沢九谷の基を築いたといわます。その後、吉造は輸出品にも意を注ぎ、貿易商 円中孫平の片腕となって大いに活躍しました。
作品の特色
 金沢九谷の画風は、輸出先の要請に合わせ、赤絵細描に金銀彩を加え、人物を多く措きこんだ道開風(斉田伊三郎)の「百老手」、また花鳥、山水に「石目打」と称する細かい点を並べた技法などが併用され、精彩美麗で技巧のこんだものが主なものでした。さらに、明治の後半には盛金をつけることでより巧みとなり、一層、絢欄なものとなりました。
 また、明治17年(1844)にドクトル・ワグネルが来県したとき、彼によりもたらされたテレメン油を使って絵の具の濃淡を自由に変えられる手法が取り入れられると、ますます精緻な画風を志向し、また細字描きも行われるようになりました。
主な陶工たち
 内海吉造、阿部碧海、小寺藤兵衛、笹田友山、石野竜山、安達陶仙、柄本暁舟、初代利岡光仙、春名繁春、友田安清、和沢含山、清水美山
 なお、石野竜山は釉下に彩絵を施す独特の技術を創り出し、また、野村善吉、宮荘一藤、小田清山らは細字書きで知られています。

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