搜尋此網誌

2018年2月27日 星期二

九谷燒的陶器商家

金沢九谷の歴史 主な項目
  1.金沢の絵付工場
  2.活躍した陶画工
  3.活躍した陶器商人
  4.金沢の窯元
  5.金沢の基盤的な施設(試験場、美術館、学校)
3.活躍した陶器商人

 金沢九谷の活躍した陶器商人はつぎのとおりです。
 【主な陶器商人】
    鏑木商舗 松勘商店 円中組(円中孫平) 谷口金陽堂松本佐太郎
    諸江屋 黒田龍華堂 加賀物産会社(森八) 前川湖月堂
    福栄堂 中村長寿堂

鏑木商舗    文政5年(1822)~現在

鏑木商舗は、文政5年(1822)、金沢で九谷焼を取り扱う最初の店舗として開業しました。当時の状況は、加賀藩の意向で九谷焼の再興、普及が推進され、若杉窯(文化8年1811開窯)や小野窯(文政2年1819開窯)が操業しており、商舗が開業した年には民山窯が開かれ、そして2年後には大聖寺の豪商 豊田伝右衛門によって吉田屋窯が開かれるなど、再興九谷の諸窯が盛況でした。
 初代 鏑木次助は、商舗の開業を成し遂げ、すぐに継いだ、二代 太兵衛は、商舗の経営を軌道にのせることに努め、自家工房に陶画工を集めて絵付した完成品のみならず、民山窯の一部の商品も販売したといわれます。
 三代 太兵衛は、先代の事業を受け継ぎ、順調に商舗を経営しました。安政5年(1858)には加賀藩からの諭示(通達)に従い、九谷焼の工場を建て、自家工場で完成品を作り、不足の商品については能美の窯元から仕入れするほどになりました。小野山陶器所(小野窯)の記録によれば、安政6年(1859)2月に、鏑木商舗が小皿、向付、徳利と猪口、湯呑と急須、菓子鉢、摺り鉢などの鉢類、片口などの日常生活用品を購入したと記されています。
 四代 太兵衛は、万延元年(1860)、商舗を受け継ぎました。慶応3年(1867)、九谷焼の輸出の機運が現れていたので、金沢のほかの陶器商人と連携し、神戸から九谷焼の輸出を始めました。輸出品は、内海吉造を頭取にして民山窯で養成された陶画工を自家の絵付工場に招いて、若杉窯や小野窯から買い入れた素地に絵付をしたものでした。
 この輸出は明治に入ってから軌道に乗り、また国内向けにも拡大しました。素地窯、絵付工場には良工が集まり、質量共に整った生産体制が出来上がり、需要に応えるため、金沢、大聖寺、小松、寺井など県下全域から良品を仕入れ、また阿部碧海、内海吉造、九谷庄三、松本佐平などの名工による優品の制作を依頼しました。
鏑木商舗の銘 商舗の方針として、商品の裏印には必ず「鏑木」の名を入れ、良い商品を売る商舗の商標となるように努めました。「鏑木製」、「鏑木造」、「鏑木謹製」、「太平造」なども使用しましたが、制作を依頼した名工の作品であったことと合わせて、鏑木の優れた商品は広く販売されました。
 五代 太兵衛は、明治9年(1876)、17歳で家業を継ぎ、先代と同じ方法で商品の生産や仕入れ、更に商圏を拡大させました。当時、仕入を行った窯元あるいは陶画工は、金沢の初代 諏訪蘇山、石野竜山、前川卯山、大桑右霞、若村泰山、丸岡儀八郎、三好政詮、小松の初代 徳田八十吉、江沼の初代 須田菁華らでした。その数は当時の陶画工の6~7割に及んだといわれます。ですから、商舗は国内外の展覧会に宣伝を兼ねて度々出品したので、多くの賞を受けました。
 六代 太兵衛は、引き続き商圏の拡大に努力したところ、金沢、東京、大阪、神戸、さらにヨーロッパなどの多くの得意先を持つようになり、商舗を卸と小売りをする金択一の九谷焼の店舗に仕上げました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

松勘商店    慶応元年(1865)~昭和20年(1945)

松勘商店は、慶応元年(1865)、初代 松原勘四郎によって金沢で開業されました。小野山陶器所(小野窯)の記録によれば、それ以前の万延元年(1860)、兄 勘兵衛の名で素地を買い入れたと記されていますが、これは勘四郎の代わりに取引していただけで、すでに陶器商を営んでいたといわれます。
 勘四郎は、専ら九谷焼の海外貿易に力を注ぎ、明治8年(1875)、横浜に支店を設けてから、松勘商店の業績は上がりました。松勘商店の事業は拡張し、勘四郎を明治期の金沢豪商の一人にさせたといわれます。
 明治28年(1895)以降、世界の経済事情の変化もあって、九谷焼の貿易が不振になったので、国内へ販路を変えていきました。
 商品は、素地を購入してきて、自家で陶画工を置いて上絵付させ、それを完成品として買い入れる方法がとれました。素地は、主として寺井村湯谷の中口長次窯、国府村の小坂次郎松窯から仕入れ、絵付は、自邸内の給付工場で主任1人に10人余りの陶画工が行いました。高級品などの絵付は、若村正雄、竹田有恒外ら3人程の画工に依頼したといわれます。
 裏銘は「松原製」「九谷松原製」「加国松原製」などでした。
 昭和に入ってから、小松衛生陶器も取り扱いましたが、戦後、九谷焼卸商を廃業しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

円中組(円中孫平)    慶応3年(1857)~明治43年(1910)

円中組は、慶応3年(1867)、円中孫平が大阪に益亀組という貿易商社を創立したのが始まりで、孫平が亡くなるまで事業が続けられました。  孫平は、天保元年(1830)、越中砺波の農業 石崎八郎兵衛の三男として生まれ、弘化5年(1848)、18才のとき、金沢の姻戚である中野屋孫兵衛の養子となりました。菅笠商を始め、この商いがうまく行ったことから、加賀藩から「円中(まるなか)」の名字を名乗ることが許されました。
 円中組は、明治に入ると、製糸、銅器、九谷焼の貿易に乗り出しました。明治2年(1869)に開かれた阿部碧海窯の製品(コーヒーセット、茶器、食皿、菓子皿など)を取扱い、長崎と神戸の支店から輸出して製品の販売に協力しました。
 明治6年(1873)、ウィーン万国博覧会に九谷焼を出品し好評を得ました。この博覧会は日本政府が初めて公式参加したもので、合わせて西洋の新技術を習得するため各部野の技術伝習生77人が派遣されました。その中に、孫平の婿養子 円中文助、陶磁器を学ぶ納富介次郎(有田)、後に「円中組」にも関わることになる、製陶法を学ぶ丹山陸郎(京都)ら加わっていました。
 万国博覧会終了後、伝習生らはワグネルから様々な指導を受け、各地の窯場で調査研究し、そして石膏型による成型法、水金(みずきん 陶磁器表面の金彩色に用いる上絵付け絵の具の一。金の塩化物を硫黄・テレビン油などとまぜた濃厚液)などの顔料や釉薬の技術(明治初期は外国商社から洋絵の具を輸入して使用していました)を身につけて帰国しました。その後、これらが有田、瀬戸、京都、石川県の窯場に急速に広まり、ヨーロッパ式の窯も築かれました。
 明治9年(1876)、孫平自身がフィラデルフィア万国博覧会に出向いて、陶磁器、銅器、漆器、生絲、製茶などの販路拡張に努め、このとき、孫平は納富介次郎と出会いました。孫平がその後九谷焼の輸出に目を向け、“ジャパンクタニ”を世界へ発信することに尽力することになったのは、介次郎とのこのときの出会いがあったからといわれます。
 納富介次郎自身は、当時の日本の美術工業(工芸)品が洗練されず、独自性に乏しく、デザイン力が不足していることに気付いていました。職人へのデザインの提供、学校の創設などに関わっていました。
 納富は、南画を学び絵も描くなど美術工業(工芸)にも造詣が深く、お抱え教師として来日していたドイツ人のワグネルの影響もあり、精巧な美術工業(工芸)品を造るのが得意な日本人の技術力に目を付け、富国の道として“美術工業(工芸)品”の貿易を目指しました。
 納富の影響を受けて、”円中組製の九谷焼”は細密で金色を多く用いた豪華なものであったので、欧米で“ジャパンクタニ”として高い評価を得ました。円中組には名工の春名繁春が工人として従事し、また多くの名工を抱えた為絢社に注文しました。
 やがてパリやニューヨークに円中組の支店が設けられ、金沢銅器、九谷焼が盛んに輸出されました。外国人の眼で輸出品の選別をさせたりするなど、率先して海外貿易の発展に努め、石川県の各種産業の向上発展のために大きな功績を残しました。孫平の信念は「良品を作り、外国で売るのは日本のため」というものでした。
 こうして、明治20年(1887)、貿易九谷は最盛期を迎え、日本の陶磁器貿易で第一位となり、全九谷生産額の80%が貿易品で占めるまでになりました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

谷口金陽堂    明治8年(1875)~昭和32年(1957)

谷口金陽堂は、明治8年(1875)、初代吉次郎によって金沢に九谷焼を扱う店舗として開業しました。他の陶器商人より遅れて、明治28年(1896)、神戸に支店が設けられ、輸出に力が入れられました。この事業は、二代 吉蔵によって進められました。明治41年(1908)、初代 吉次郎が隠居して吉翁と称し、吉蔵が跡を継ぐと、たびたび欧米各国、満州、韓国などを往来して販路の拡張に努めました。
 小松の松本佐平が経営していた松雪堂が、明治30年代の経済恐慌の影響を受けて陶磁器産業にも不況がもたらされ、明治36年(1903)に倒産したとき、初代 吉次郎は、親しくしていた松本佐平と佐太郎の親子に支援の手を差し伸べ、谷口金陽堂に招き入れました。こうして佐平は、晩年、銘「金陽堂佐瓶造」の作品を谷口金陽堂で制作し続けられ、また佐太郎は、谷口金陽堂で制作をする一方で、明治43年(1910)にイタリア万国博覧会の仕事を石川県より依頼されるなど、業界のために尽くしました。
 初代 吉次郎自身も、金沢商工会議所議員を16年間勤めたほか、加賀九谷陶磁器同業組合組合長を6年間勤め、石川県工芸界の向上に貢献しましたが、その後、昭和2年、松本佐太郎に託して第一線から退きました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

 松本佐太郎   明治11年(1878)生、昭和16年(1941)没
 松本佐太郎は、明治11年(1878年)、小松の松本佐平の長男として生まれた。父の指示で中学進学を諦め、丁稚奉公へ出ましたが、その後、大学、ベルツ万国語学校の通信教育を受け、英・独・仏・伊語を4年間学ぶような意欲的な人でした。
 しかし、明治36年(1903年)父、佐平の松雪堂が倒産、父の親しくしていた同業の谷口吉次郎の経営する谷口商店に親子とも勤めるようになりました。
 佐太郎は、明治40年(1907年)、ロンドン開催の日英博覧会誘致に関し、アイルランド、スコットランドの開催者の相談役となるほど、知見のある日本人として海外から高い評価を受けました。
 その後、明治43年(1910)、日英博覧会視察でロンドンを訪問中、石川県よりイタリア万国博覧会の仕事を依頼され、4年間欧州に滞在しました。帰国してから、当時のヨーロッパの産業、文化、政治に関する『欧州陶磁器業の現状』を著作しました。
 こうして、佐太郎は、父の陶画業を継ぐことなく(継いだのは初代 徳田八十吉)、九谷焼、特に古九谷の研究とその著書に注力しました。著作は次のとおりです。
   大正13年 陶工松雲堂左瓶    昭和3年 九谷焼の沿革
   昭和3年 九谷陶磁史考草     昭和4年 九谷陶磁史鑑
   昭和6年 九谷陶磁史 巻上    昭和7年 九谷陶磁史 巻下
   昭和10年 九谷陶磁史を中心に  昭和11年 金沢の焼物
   昭和15年 定本九谷

諸江屋    明治12年(1879)~現在

諸江屋は、明治12年(1879)、初代 諸江久兵衛によって各地の陶磁器を扱う店舗として金沢に開かれました。ただ、小野山陶器所の記録に、“文久2年(1861)8月、材木町 諸江屋久兵衛”との取引が記載されていることから、明治12年以前から陶器商を営んでいたと考えられます。
 諸江屋は、市民や観光客も相手に小売商を行い、九谷焼だけでなく、清水焼、有田焼、瀬戸、美濃の焼物など広く日用品を取扱いました。
 二代 諸江徳太郎も、初代と同じく、華やかな明治九谷の貿易品には目もくれず、広く国内の商いに努めました。大正から昭和の初期にかけ、利岡光仙窯から素地を仕入れ、浅野栄山が上絵付した製品や丸寿陶器、手島商店、宮本泰山堂などの完成品なども販売しました。そして金沢市内の顧客のほか、山中、山代、粟津などの旅館へ業務用食器を納めました。
 その後も、諸江屋はこの営業姿勢を変えず、今に受け継がれています。

黒田龍華堂    明治23年(1890)~ 現在

黒田龍華堂は、明治23年(1890)、初代 黒田文次郎によって菓子と九谷焼も取り扱う一般的な陶器商として開業しました。店は東本願寺金沢別院の前にあり、当時は神仏の崇拝が盛んな頃であったので、参拝客で大変繁盛し、特に、日清、日露の戦勝時に兵士の除隊記念の買い物で賑わったといわれます。
 明治33年頃から陶器専業に切り替え、水田生山、中島一渓、市原栄太郎、小西松太郎、熊谷八、小田清山などの多数の赤絵や九谷細字の陶画工らに外注した商品を販売しました。
 後に始めた卸売りと合わせ、有名小売店には一流九谷焼の良品を卸売りすることを基本に、一流の金沢九谷を販売して金沢九谷の声価を高め、広く県外に販路を開拓した点で、大正、昭和前期の金沢商人による代表的な陶器商の一つとなりました。

加賀物産会社(森八)    明治28年(1894)~明治37年(1904)

菓子の老舗「森八」の十五代 森下八左衛門(文久元年1860生れ)は、元気盛んなころから、日本の各種工芸を愛し、明治25年(1892)、金沢柿木畠に錦窯を築き、友田安清、吉村又男(友田にの実弟 顔料研究者として有名)、初代 諏訪蘇山、竹内吟秋らを招聘し、良品を製出させていた。
 その後、明治28年(1894)に加賀物産会社を金丸宅次郎とともに創立し、10年あまり、九谷焼を作り続きました。

前川湖月堂    明治30年(1897)~?

前川湖月堂は、明治30年(1897)、前川亀吉によって九谷焼の店舗として開業されました。明治、大正期に金沢市民や観光客に食器類、装飾品などを小売するためでした。
 商品は、利岡光仙窯から仕入れた素地に三好青遷、前川卯山、針沢茸山らが絵付した商品や、秋山商店、宮本嘉衛商店、利岡光仙窯から購入した完成品でした。作者が不明ですが、古九谷写しや民山窯の赤絵の写しも作られました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

福栄堂    明治42年(1909)~昭和10年(1935)

福栄堂は、明治42年(1909)、初代 桑田与重郎(明治9年金沢に生まれ)によって九谷焼の店舗として開業されました。
 商品の改良と販路の拡張に努め、次第に業界の信望も得るようになり、九谷焼全般にわたる商品は県内外で販売されました。
 桑田は、同業組合の組長を勤め、組合に多額の寄付をしました。また、燃料に電気を使うことを試み、電気窯の試作まで行いました。なお、この後を継いだ中村長寿堂の中村久太郎が大正の中頃、九谷焼最初の電気窯を完成させました。電気窯に着目した桑田の功績は大きかったといえます。
 福栄堂は、昭和10年(1935)、桑田が59歳のとき、閉店され、事業は屋号の福栄堂と共に同店の店員 柿沢友吉に譲られました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

中村長寿堂    明治42年(1909)~?

中村長寿堂は、明治42年(1909)、初代 中村久太郎(明治14年1881、高岡生まれ)によって開業されました。中村は、その2年前に高岡で九谷焼商を始めており、金沢に出て店舗を設けました。主として、卸売業を営み、全国数十店と取引しました。
 商品の製造方法が特異で、小松市に専用の素地窯を持ち、不足のときは利岡光仙窯、山代の美陶園などの窯元から購入し、金沢の優秀な陶画工をたくさん抱えて良品を作り、不足したときは佐野の宮本商店から仕入れました。業績は良かったといわれます。
 初代 久太郎は、大正の中期ころ、桑田与重郎が果たせなかった電気窯を完成させ、九谷焼の上絵窯として導入することに初めて成功し、さらにゴム印による絵付技法を開発するなど九谷焼の生産の効率に努力しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

九谷燒的知名陶畫工

2.活躍した陶画工
 金沢には、古くから、加賀藩の御抱絵師やその流れを汲む絵心ある者が多く、ほかにも、京都と並んで美術工芸家が多くいました。加えて元藩士だけでなく美術工芸の観賞眼の高い者がいたことから、明治の初期から中期にかけて多くの絵師がたくさん輩出され、彼らは直接間接に金沢九谷の絵付に大きく関わりを持ちました。
 こうして、金沢では、明治期を通して、絵心のある陶画工、名工に養成された陶画工、店舗を構えた陶画工、絵付や技法を開発した陶画工など、ほかの地方にはない、多彩な陶画工が活躍しました。
 その主な陶画工はつぎのとおりです。

≪明治初期≫ (明治元年1868~明治22年1889)
 内海吉造 任田徳次 山田久録 小寺椿山 春名繁春 笹田友山 清水清閑
 飯山華亭 柏 華渓 岩波玉山 赤丸雪山 笠間秀名 宮荘一藤 初代 和沢含山

≪明治中期≫ (明治22年1889~明治37年1904)
 竹内安久 清水美山 松岡初二 八田逸山 野村善吉

≪明治後期~大正期≫ (明治38年1905~明治45年1912  大正元年1912~15年1926)
 初代 石野竜山 友田安清 大桑右霞 水田生山 田辺渓泉 相川雪花 窪田南山
 初代 高橋北山 若村泰山 安達陶仙 小田清山 丸岡儀八郎 柳田素山 三階湖山
任田徳次    文政元年(1818)生、明治10年(1877)歿
 任田徳次は、春日山窯、民山窯の陶画工であった徳田屋徳右衛門(1792~1873)の子で、陶技を父に習った後、民山窯の陶工として赤絵細描の技法に手腕を発揮しました。彩雲楼旭山あるいは九谷旭山と号しました。
 金沢の民山窯が弘化元年(1844)頃に廃窯したのち、加賀藩最後の藩主 前田慶寧が、慶応3年(1867)、殖産興業のため卯辰山山麓に藩窯「陶器所並陶器竃」を興したとき、徳次は内海吉造と共に従事しました。
 その藩窯が明治維新により閉じたので、徳次は、同窯を譲り受け、向山窯と称して自営で操業を続け、呉須赤絵写しのほか、赤絵細描、染付による日用品を主に作陶しました。
 明治2年(1869)、阿部碧海が興した阿部碧海窯の絵付工場にも一時従事しました。また東京に出て作陶したことも知られています。
 後年の作品には割模様に文様を様々な絵の具で描き、余白部を赤地金彩とする作品がありました。
 門下に女婿の初代 諏訪蘇山、春名繁春などがいました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

山田久録(久六)    文政年間(1818-1826)生?、明治10年(1877)歿
 山田久録は、嘉永年間(1848~1854)、鍋屋吉兵衛(内海吉造の父 民山窯の陶画工)に陶画を学びました。久録と号しました。
 久録は、屋号を山田屋久六とし、万延元年ころの小野山陶器所記録にその名が記されていることから、陶器商人としても活躍したといわれます。
 当初の作品は、師 吉兵衛の作品に似ているといわれますが、赤絵金彩の優品を多く作りました。また、当時の流行りの「庄三風」に倣い、極めて精緻な彩色金欄を描きましたが、その意匠は九谷庄三の作品に比べ、高尚で優雅であると評されました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

小寺椿山(藤兵衛)   天保元年(1830)生、明治19年(1886)歿
 小寺椿山は、明治初期(通説1868年~1889年の間)の九谷焼の名工の一人といわれ、椿山と号しました。
 椿山は、幼い頃から絵画を好み、染物絵師 高木伊右衛門、狩野派画家 松波景栄に師事しました。安政3年(1856)、加賀藩御抱絵師 佐々木泉龍の指導を受けてから才能に目覚め、高弟の一人といわれるまでになりました。慶応年間(1865~1867)、加賀藩の染画工 松根屋長左衛門と大聖寺藩の染画工 石田茂平の両家を助けました。
 画才がありましたが、絵画だけにとどまらず、工芸関係に斬新さを打ち出すことに努めたといわれます。そして、明治2年(1868)、阿部碧海窯の絵付工場に入り、明治9年(1875)まで在籍したのち、勧業場の陶画教授となり、多くの生徒を教えました。勧業場が廃され、明治13年(1881)、藤岡岩花堂がその窯を継いだとき、その陶画部を統括しました。
 明治15年(1883)からは、納富介次郎の下で陶画並びに図案を研究し、勧業博物館からの嘱託を受けて古い名器を見たままに描写した図録を作成しました。
 こうした仕事をする傍ら、陶画を業とし、明治初期の九谷焼の名工と称されました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

春名繁春(栄生堂)    弘化4年(1847)生、大正2年(1913)歿
 春名繁春は、絵画を加賀藩御抱絵師 佐々木泉龍に、陶画を任田徳次(旭山)に学びました。栄生堂と号しました。
 明治6年(1873)から同9年(1876)の間、阿部碧海窯の陶画工として従事しました。その評判は内海吉造と並び称せられるほどで、金沢九谷の名工でした。
 明治6年のウィーン万国博覧会、同9年のフィラデルフィア万国博覧会に出品して賞を受け、いずれも人物、花鳥などを描いた30cm前後の金襴手の花瓶でした。
 阿部碧海窯に従事した後、円中孫平の錦窯で陶画工として優品を制作しました。中に、70cmの大きな耳付の金襴手の花瓶がありました。
 明治15年(1882)、円中が事業不振に陥ってから、活躍の場を広げました。まず、横浜に出て、薩摩焼の絵付に従事しました。そして、明治22年(1889)、東京職工学校に模範職工として招聴され、同35年(1902)まで東京高等工業学校に勤めました。この間、ゴットフリード・ワグネルの旭焼(ワグネルが開発した釉下彩の技法で作った)を補助し、また図案の雑誌を発行しました。
 その後、京都に移り、陶磁器試験所で藤江永孝の下で作品を制作し、さらに九代 錦光山の図案教師として招聴されました。錦光山が装飾の豊かな色絵陶器を制作し、その輸出を図っていたので、繁春は図案の制作に携わりました。
 九谷焼における門人に、柳田素山、島田芳山、廣瀬常次郎、平松時太郎などがいました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

笹田友山(蔵二)    天保11年(1840)生、大正3年(1914)歿
 笹田友山は、幼少より陶画を学び、明治5年(1872)、絵付工場を起して絵付を専業としましたが、同11年(1878)に工場を閉鎖し、為絢社で修業し直しから、単独で陶画業を再開しました。友山と号しました。
 友山の作品は、金襴手のものが多いものの、得意とするところは、古九谷の倣古品を制作することで、その作品は殆ど真贋がつかないほどであったといわれます。
 門人に竹内安久、八田逸山など優れた陶画工がいました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

清水清閑     天保6年(1835)生、大正10年(1921)歿
 清水清閑は、明治初期の名工の一人といわれます。
 清閑は、10代より九谷焼の陶画工を目指し、研鑽を重ねた末、阿部碧海窯の名工の一人として活躍することになりました。また明治5年(1872)以降、金沢と横浜、神戸の間を往来して、九谷焼の輸出に力を尽しました。同9年(1876)、金沢に九谷焼の店舗を開き、精巧な良品を制作して名声をあげました。
 作品には、金襴手が多く、微細に描くことに得意でした。明治10年(1877)の内国勧業展覧会において優れた陶画工に贈られる褒状を受けました。ほかに金沢九谷の特色である九谷細字もありました。
 晩年は、店舗を継ぐ者がいなかったことから、店舗を閉じ、趣向の赴くままに小品を制作し続けたといわれます。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

飯山華亭(他家次)    生年?、没年?
 飯山華亭は、加賀藩御抱絵師 池田九華から絵画を修業し、明治初期から中期(1889~1904)にかけて、優れた金沢九谷の作品を作り、活躍しました。華亭と号しました。
 華亭は、友田安清の陶画における師でした。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

柏 華渓(丈夫)    生年?、明治26年(1893)歿
 柏 華渓は、加賀藩御抱絵師 池田九華の門人で、明治の初期から中期にかけて貿易九谷にその秀でた絵筆を揮いました。華渓と号しました。
 華渓は、明治20年(1887)、寺井の綿野吉二が自邸内に錦窯を築いて貿易九谷を生産するために名工を集めたとき、金沢の名工の一人として招聴されました。
 門人に田辺渓泉、丸岡儀八郎などがいました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

岩波玉山    生年?、没年?
 岩波玉山は、優品を制作しないと雇われなったといわれた阿部碧海窯の絵付工場に入り、任田徳次、小寺椿山、春名繁春らと働きました。
 玉山は、細かな赤絵に金彩を施した貿易九谷を制作することが得意でした。
 玉山は、友田安清に陶画を教えました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

赤丸雪山    文政10年(1827)生、明治30年(1897)歿
 赤丸雪山は、明治初期から中期の金沢九谷の名工の一人で、雪山堂と号しました。
 雪山は、石川県勧業場、そして為絢社で活躍し、また大聖寺の井上商店製の作品もあることから、金沢以外でも制作したことがわかっています。
 作品としては、比較的小さめの割取(団扇の形など)を器面にいくつかとり、その中に人物などを色絵で描き込み、割取の外側を金襴手で装飾する構図が多く見られました。
 門下に水田生山がいました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

笠間秀石(弥一郎)    生年?、明治28年(1895)歿
 笠間弥一郎は、越中屋平吉(民山窯の職長)の孫で、笠間家を継ぎました。秀石と号しました。
 秀石は、明治10年(1877)頃、九谷庄三の門に入り、庄三に陶画を学びました。その門下には、後に名工といわれた、初代 武腰善平、中川二作、小酒磯右榮門らいました。
 秀石は、天分に恵まれ、庄三の高弟と称されるまでになり、晩年の庄三を助けたといわれます。銘が「九谷庄三」の作品でも、秀石のものが含まれているといわれます。
 師の庄三が明治16年(1883)に亡くなってから、秀石は金沢に戻って陶画業を始め、赤絵、金襴手の作品を多く制作しました。
 門下に清水美山などがいました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

宮荘一藤(北岳堂)    弘化3年(1846)生、大正8年(1919)歿
 宮荘一藤は、加賀藩士でしたが、明治維新後に陶画を学び、のちに金沢九谷の名工の一人に数えられるようになりました。北岳堂と号しました。
 明治前期(1868~1889)、円中孫平からの依頼で貿易九谷の大作を制作した一方で、明治15年(1882)年頃、野村善吉、高橋北山と共に九谷細字を書き込む加飾法を始めました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

初代 和沢含山(橘三郎)    安政5年(1858)生、昭和2年(1927)歿
 初代 和沢含山は、明治9年(1876)、勧業場に入り、尾形周平から陶画を学びました。そして、明治13年(1880)、勧業場の窯と共に藤岡岩花堂に移籍しました。
 明治28年(1895)から富山県の福岡焼を指導し、明治33年(1900)、友田安清と共に兵庫県の製陶所で授業を行い、明治40年(1907)、金沢に戻ると、独立して製陶業を始めました。
 二代 含山は、石川県立工業学校を卒業した後、全国の製陶産地を訪れて見聞を広め、大正5年(1916)、京都の高橋道八に師事し、大正8年(1919)、帰郷して、谷口金陽堂の専属窯を金沢の法島に築きました。この窯は法島窯と呼ばれました。
 父 橘三郎と共に、染付、南蛮、仁清、三島などに倣い、優品を作りました。

竹内安久    生年?、没年?
 竹内安久は、金沢九谷の名工といわれ、誠山堂と号しました。
 安久は、内海吉造が起業した為絢社に入り、金沢九谷の輸出品の絵付に従事しました。その後、独立して陶画業を始め、金襴手の作品を多く作りました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

清水美山    文久元年(1861)生、昭和6年(1931)歿
 清水美山は、本願寺金沢別院の寺侍 清水幸蔵の長男として生まれ、絵画を直江菱舟、岩井孝次に、陶画を笠間秀石に学び、明治13年(1880)、東京で岡村忠平から薩摩焼の盛金絵付の技法を習得しました。翌年、金沢で陶画業を始め、その後いろいろな技法や画風を考案したことから、金沢九谷の名工と称されました。
 明治18年(1885)、松岡初二と協力して、四分一合金(金属工芸で使われてきた日本古来の色金(いろがね)のひとつで、銀と銅の合金)を陶画に着け、象嵌模様のように表現する技法を編み出しました。合金による上絵付をするという、金沢九谷の特色の一つとなるきっかけを創りました。
 美山の考案した図柄の中で、牡丹に孔雀の図柄は明治40年(1907)頃から大流行し、また美山が最も得意としたのは、繊細緻密の盛金絵付でした。繊細緻密な盛金絵付の技法は、高度な技巧を要する金沢九谷の中でも、かなり難しいといわれたもので、轆轤成型された素地の上に絵の具を塗っては焼いてそれを重ねていき、一つ一つの模様を形取り、最後にその上を金で塗り重ねるというものでした。
 こうした絵付は、明治期に世界的なブームを呼んだジャパンクタニの貿易九谷を代表するものの一つとなりました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

 清水美山堂
 清水美山堂は、明治25年(1892)、初代 清水美山が金沢に開いた九谷焼の店舗で、自作のものと仕入れたものとを扱いました。ただ、昭和11年(1936)に閉店しました。

松岡初二(初太郎)    安政3年(1856)生、大正10年(1921)歿
 松岡初太郎は、初二を号としました。
 初二は、民山窯の主工 山上松次郎(若杉窯で本多貞吉の高弟の一人)に陶画を学びました。
 新しい技法をよく生み出し、明治18年(1885)年、清水美山と共に陶画に四分一合金を使って、象嵌模様を表す技法を考え出し、また明治30年(1897)、陶画に写真を焼付ける新法に成功しました。これらの技法は業界の進展に役立つものとなりました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

八田逸山(孫一郎)     年生?、没年?
 八田逸山は、陶画を笹田友山に学び、明治初期から中期にかけて活躍した陶画工でした。特技の九谷細字を活かした作品や、金襴手などの作品を作りました。
 門人に石野竜山がいました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

野村善吉(芙蓉堂)     年生?、没年?
 野村善吉は、号を芙蓉堂としました。
 善吉は、明治15(1882)年頃、宮荘一藤、高橋北山と共に金沢九谷に細字を書き入れることを始めました。九谷細字は、赤壁の賦や干宇文などを器体の内側や外側に書き入れたもので、大いに珍しがられました。その創始者として善吉たちの功績は大きかったといえます。
 明治28年(1895)ころ、後に九谷細字の大家となった、佐野の小田清山と寺井の大原江山などを指導しました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

初代 石野竜山(兵太郎)    文久元年(1861)生、昭和11年(1936)歿
 初代 石野竜山は、中浜竜淵、垣内雲嶙に絵画を、八田逸山に陶画を学び、明治16年(1883)、金沢市内に大中小三つの錦窯を築き、職人2人を置いて陶画業を始めました。
 竜山の作品には繊細緻密な人物、山水、花鳥が描かれ、その細描の技術は当代陶工の中で群を抜いていました。こうした作品は、国内の展覧会のみならず、サンフランシスコ万国博覧会などの海外の展覧会にも出品され、数々の入賞の実績を残したほど、優れたものでした。
 竜山は、小松の松原新助窯のところで、素地と釉薬との相性をよく研究し、釉薬の技術力を高め、明治35年(1902)、上絵釉を用いて、釉下彩に等しい黄彩、緑彩、染付藍、茶褐釉、淡縁釉、桜色氷裂釉、真珠釉などを次々に開発しました。それらの釉薬を用いて文様をより高尚なものに仕上げました。釉薬研究に大きな功績を残した名工でした。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

友田九渓・九径(安清)   文久2年(1862)生、大正7年(1918)歿
 友田安清は、明治5年(1872)、加賀藩御抱絵師 池田九華に絵画を学び、九華が没してからは岩波玉山、幸野梅嶺らを師としました。さらに飯山華亭に陶画を学び、内海吉造から文様、顔料の調合を修業しました。
 その後、明治14年(1881)、陶画業を始めました。絵画を研究し続け、明治19年(1886)、東京職工学校にて、ゴッドフリード・ワグネルから顔料調合法と陶磁器製造法を学び、明治20年(1887)、金沢工業学校が創立されたとき、金沢に戻って石川県立工業学校の教壇に立ちながら、自宅で陶画業を始めました。
 明治24年(1891)、その職を辞し友田組(後述)を実弟 吉村又男と共に設立し、洋式顔料の製造を始めました。多種類の磁器顔料の製造に成功して、外国品の輸入を抑えたといわれます。明治39年(1906)、金沢に林屋組(後の日本硬質陶器)を創立し、その技師長となりました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

大桑右霞(慶太郎)    慶応2年(1867)生、大正9年(1920)歿
 大桑慶太郎は、幼少の頃、陶画を松下市太郎に、四條画を垣内右隣に学びました。明治17年(1885)、18歳のとき、独立して陶画業を始めました。号を右霞としました。
 明治20年前後の貿易九谷が最盛期のとき、右霞の作品が優れていたので、鏑木商舗が独占的に買い入れました。当時の名工、石野竜山、丸岡儀八郎、若村泰山などと腕を競い合って、鏑木商舗向けの商品を作ったといわれます。
 明治末期から大正にかけて、門人に多数の良工を輩出し、その中には北 智梅、小西松太郎、坂尾仁三郎らがいました。

水田生山(四郎)    明治6年(1873)生、大正10年(1921)歿
 水田四郎は、赤丸雪山に陶画を修業し、明治28年(1895)、22歳にして、陶画業を始め、生山を号としました。
 生山は、明治32年(1899)頃、絵付工場を設け、数多くの陶画工や徒弟を養成しました。
 技法や画風において大いに研鑽を重ね、金沢九谷の名工といわれました。盛金絵付に堪能であったことから、大正元年(1912)頃、青粒の技法を創始し、また翌年、花詰めの画風を取り入れることを始めました。
 また、安達陶仙の主宰する上絵付の研究会「赤瓶会」に参加し、柄本暁舟、田辺渓泉ら10人ほどの会員と共に、盛金で器面を埋め尽くす金沢九谷の画風に新風を吹き込みました。また青九谷を研究し、技術的に優れた作品を作ったといわれています。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

田辺渓泉(帯山・辰次郎)    明治元年(1868)生、昭和10年(1935)歿
 田辺渓泉は、柏 華渓に陶画を学び、明治20年(1887)、19才のとき、独立して陶画業を始めました。渓泉と帯山の二つの号を持ちましたが、華渓綿野吉二のところで従事していたころに、帯山はその後に用いたといわれます。
 辰次郎は、九谷焼の巨商、寺井の綿野吉二の錦窯に専属陶画工として従事し、貿易九谷の絵付に、特に大きい花瓶や香炉に優れた筆使いを見せ、多くの美麗な作品を残しました。
 10数年間ほど吉二のところで制作を続けたのち、多数の工人徒弟を養いながら、常に産業九谷の大量生産に精励しました。
 また率先して電気窯を設置するなど、生産の効率を上げることに努め、特に金沢で電気窯が導入されたのが大正の中頃でしたので、大正末頃から昭和初期にかけて、電気窯の普及を提唱し、業界の発展に尽くしました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

相川雪花(正之)    慶応2年(1866)生、大正8年(1919)歿
 相川雪花は、飯山華亭に陶画を学び、雪花と号しました。  雪花は、明治35年頃から、石野竜山、大桑慶太郎、水田生山らとともに、金沢九谷の名画工として名を連ねた一人でした。大正3年(1928)、金沢での大正博覧会で石野竜山と共に入賞し、また大正5年のサンフランシスコ万国博覧会への出品を依頼されるほどの名工でした。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

窪田南山(小十郎)    慶応3年(1867)生、昭和3年(1937)歿
 窪田南山は、陶画を星山直元に学び、明治24(1892)年、25歳のとき、陶画業を始め、南山を号としました。
 南山は、寺井の綿野吉二の専属陶画工として精巧品を制作しました。吉二が明治20年に自邸内に数基の綿窯を築いて、貿易九谷の絵付を大改良したとき、明治22年(1890)、金沢から招聘された津田九憐、柏 華渓、村田白儒らと共に従事しました。23歳から25歳までの3年間、吉二の錦窯で働き、25歳のとき、独立して、金沢で陶画業を始めました。間もなくして金沢九谷の名工として南山の評価は上がったといわれます。

初代 高橋北山(義房)    慶応2年(1866)生、昭和11年(1936)歿
 高橋北山は、加賀藩士の家に生まれ、北山堂を号としました。
 北山は、明治15年(1882)、15才のとき、九谷焼の道に入り、野村善吉、宮荘一藤らとともに、九谷細字を描くことを始めました。書道が得意であったので、書の能力を活かし、盃や湯呑の内側に細かい細字を書き込み、外側を当時の流行の金襴手で仕上げた作品が好評となりました。
 九谷細字の作品は輸出され、また小田清山、田村金星など細字を得意とする九谷焼作家が続いたことから、九谷細字の知名度を上がりました。こうして初代 高橋北山は九谷細字の名工と呼ばれるようになりました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

 高橋北山堂
 北山は、明治30年(1897)、31才のとき、金沢に高橋北山堂を構えました。店舗で扱う商品は、素地を窯元から購入し、自家に画工を置いて絵付をさせる方法で生産され、金沢市民や観光客相手に販売しました。
 その後も、二代 高橋進と共に、大正から昭和初期にかけ、自家に趣味と研究を兼ねた素地窯を築いて特殊素地を開発したほか、一般の商品のための素地を利岡光仙窯や鴬谷窯から購入し、完成品を自家生産しました。商品は全ての分野のものを取り扱い、不足分は仕入して販売しました。

若村泰山(嘉一郎)    明治5年(1872)生、大正9年(1920)歿
 若村泰山は、明治19年、野崎徳兵衛に陶画を学んだ後、能美郡各地の陶画工房に従事し、明治30年(1897)年頃、独立して泰山と号しました。
 細密の盛金絵付が得意でしたので、鏑木商舗、、黒田龍華堂、清水美山堂向けに作品を作りました。
 門人に良工が多く、吉崎全次、熊田一茂、川村梅堂、吉村次三郎、二代 若村泰山などがいました。
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

安達陶仙(正太郎)    明治5年(1872)生、昭和17年(1942)歿
 安達正太郎は、元大聖寺藩士の子で、明治37年(1904)、金沢工業学校の陶画科を卒業後、友田安清、吉村又男に陶画及び顔料の製造法を学びました。さらに松本佐平の門下に入り、九谷焼の絵付を学び、明治30年(1897)、陶画業を始めました。
 陶仙は、林屋組、石川県図案所にも従事し、明治37年(1904)、母校の窯業科の教師になり、長年にわたり、生徒の指導を行いました。自らは、青磁釉、結晶釉などの本窯の釉薬や洋絵の具を研究し、九谷焼の上絵付の改良に努めました。
 明治30年代、金沢で赤瓶会という上絵を研究する会を主宰しました。会員が10人程でその中には柄本暁舟、田辺渓泉、水田生山らがいて、盛金の密画で容器を埋め尽くす当時の金沢九谷の画風に新しい風を吹き込もうと、青九谷を研究しました。
 陶仙の作品は、独特の風格があり、彩色が鮮明であるなど、そのさまが極めて優れていたことから、宮家から買い上げられ、献上品に用いられました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

小田清山(清太郎)    明治7年(1874)生、昭和35年(1960)歿
 小田清山は、能美郡佐野村に生まれ、初め、「道開風」の赤絵を得意とした西本源平の門人 樋口弥三松に陶画を学びました。清山と号しました。
 清山は、明治27年(1894)から、鐘、洋盃、湯春などの内側に漢詩などを細字で書くことを始めました。明治33年(1900)、金沢の野村善吉のところで九谷細字の研鑽を積み、明治45年(1912)、自ら工夫して、百人一首、謡曲などを草行体で書く込むことを創めました。特に、径八分(2.4cm)の小さな揚子立に字数6011字を書いた作品は、肉眼で毛筆のみを使って書いたものとしてその独特の妙技が有名となりました。
 門人に寺井の田村金星がいました。
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

丸岡儀八郎    明治8年(1875)生、昭和11年(1935)歿
 丸岡儀八郎は、越中に生まれ、明治18年(1885)、10歳のとき、柏 華渓に陶画を学び、明治27年(1894)、19歳のとき、独立して陶画業を始めました。
 儀八郎は、時代に順応した大衆向の製品を作ることに力を注ぎました。後に谷口金陽堂の専属工人になりました。
 その後、多数の門人徒弟を養成しながら、昭和11年頃、10人以上の陶画工のいる絵付工場を経営し、鏑木商舗向けの仕事もしたといわれます。

柳田素山(他次郎)    慶応元年(1865)生、大正14年(1925)歿
 柳田他次郎は、素山と号しました。
 素山は、京都の錦光山窯で働いてから、明治36年(1903)、林屋治三郎が九谷焼の店舗を出して間もなく金沢に来て、林屋で仕事をしました。
 素山は、大物をよく作り、また骨書きに美しい筆使いを見せました。

三階湖山(八十松)     明治9年(1876)生、昭和6年(1931)歿
 三階八十松は、湖山と号しました。
 湖山はは、神戸で薩摩風の絵付を修得し、帰郷後、黒田龍華堂の依頼で作品を制作しました。当時、九谷焼の盛金絵付は盛り上げた絵の具の上へ金付をしたので、金だけで行う薩摩風の盛金絵付が出来る陶画工がなかったので、薩摩風の盛金絵付は人気となりました。
 代表作の「神田祭図花生」は、流動金で描いた密画の作品で、昭和30年頃、東京のせり市にて高額で取引され、その価格が金沢九谷の花生で最も高価な値であったため、大変評判となりました。

以上摘自:
http://wwr7.ucom.ne.jp/and-taku2629/kutani-guide-kanazawakutani-decorator.html

2018年2月21日 星期三

2018年2月20日 星期二

伊万里 染付 龍文 宝珠 二重角福 蓋付茶碗 三客






















伊万里 染付 龍文 宝珠 角福 二重角福 うず福 蓋付茶碗 大日本 茶碗三客
直徑:9.5公分
高:約8.5公分

 3個セットでの出品となります。
バラでの対応ができませんのでご了承ください。
龍や宝珠がお茶碗や蓋に描かれています。
伊万里のお茶碗ということで入手しました。
いつ頃のものかはわかりません。
大日本寅藏造の窯印があります。
蓋には二重の角福文字が描かれています。
デザインは一緒ですが、それぞれの器で染色の濃淡や形状が微妙に違っています。